しかし日本プロレスから馬場について来た選手は以外に少なく、佐藤、クツワダ、マシオ駒、大熊元司らだった、これでは試合が組めず国際プロレスに応援を頼むこととなるのだが、可也の人数が移籍して来ると思われていただけに、一番ガッカリしたのは馬場自身であり、心中を察するに余りある。
こうして旗揚げの日を迎える事となる。10月21日に前夜祭を日本TVで放送し、22日は日大講堂で馬場×ブルーノ・サンマルチノをメインとした。馬場が力道山縁のインタシングル王座に着いた時と同じやり方で、十番勝負を展開し勝ち越した時にチャンピョンベルトを腰に巻くもので、その第一戦となっていた。後のPWF世界ヘビー級選手権である。猪木が苦しいながらもゴッチとシングルマッチを行い団体の方向性を懸命に示そうとしたのと対象的だ。馬場が考えている全日本のプロレスはBI砲全盛期のもの、すなわち馬場の全盛期のアメリカンプロレスである。私は全日本を立ち上げた時点で、既に馬場のピークは過ぎていた気がしている。あの凱旋帰国を果たした頃の猛烈なラッシュ攻撃が影を潜め決め技にランニング・ネックブリーカードロップを使う様になっていた。当時34才であり、余程の努力をしないとこれ以上の上澄みは考えにくい。まして社長業も兼ねなければならないのだ。
このメインの組み合わせで分かる様に、馬場の大いなる勘違いは、NWAの権威の元でアメリカのトップレスラーを集め古き良き時代のプロレスを展開する事を理想とし、それをファンが喜ぶと思っているところだ。日本プロレスが起こしたプロレスブームは、BI砲の全盛とNWAの全盛期とが符合した為に成立したものであり、日本国内、そしてアメリカに於いても、少しずつ状況が変わりつつあった。そもそもNWA自体が微妙に変化し始めていた。それは連合組織でるがゆえに、プロモーター間での力関係によりその勢力図が変る兆しがあり、絶対の権威が揺らぎ初めていたからだ。また、国内に目をやると,
ファン気質が微妙に変化していた。BI砲の末期には試合がパターン化され、何となく結果が予想できてしまった。今日は場外乱闘で引き分けになるなと思うと、そうなったりした。もっと刺激のある新しい展開をファンは望んでいたのだ。
とはいえ、采は投げられた。新しい団体は立ち上がったのだ。時代の変化を敏感に感じ取り、それに対応しながら軌道修正して行くやり方もあるが、プロレス本来の醍醐味や面白さを追求する「王道」を行くやり方もある。馬場は「王道プロレス」をこれから展開してゆく事となる。
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