2010年02月07日

木村政彦と力道山(2)

天下分け目の一戦とは、両者の人生の総決算でもある。それは残酷なまでに勝者と敗者の色分けがなされる。力道山と木村政彦の一戦はまさに昭和の巌流島の一戦であり、両者の人生の分岐点となってしまった。

昭和29年11月1日付け、朝日新聞。
「力道山はゼスチャーの多い選手で実力は無く、私と問題にならない。今度挑戦したのは力道山のショー的プロレスに対して私の真剣勝負でプロレスに対する社会的批判を受けるつもりで挑戦した。」木村が力道山への挑戦をぶち上げる。2日後力道山は「上等だ。どっちが日本一か、決着を着けようじゃないか。」。ここにおいて、決戦の火蓋が切られる。
プロレスブームの真只中の出来事である。昭和29年の暮れは日本中がこの話題で持ちきりとなる。そして、プロレスはショーか八百長か真剣勝負かと連日新聞を賑わせる事となる。11月27日神奈川県松竹大船撮影所で調印式が行われ、力道山は「どんなプロでも人に見せるものをショーと言う。見て満足できない様なものは値打ちが無い。プロレスのショーと真剣勝負は紙一重だ。」そう言うと試合当日までピタリと発言しなくなる。一方の木村は調印式後、妙に饒舌とり新聞紙上で何度も力道山を挑発する発言を続ける。「私は得意の寝技で勝負する。今回は真剣勝負なので腕の一本ぐらいは折れるかもしれないが、仕方ないだろう。」「今度の試合は45分一本勝負を主張したい。真剣勝負は一本勝負で決めるもので三本なんて考えられない。」「力道山の空手チョップ。あれがアメリカ的ショウープロレスなのであまり心配していない。」
当時の社会的認知度から言えばプロレスより柔道の方が明らかに上で、その実力者木村は多くの支持を受けていた。その木村の口から、暗にプロレスはショーだと言い、それを俺が正してやると言っているのである。当時「国際プロレスリング団」を結成しプロレスで飯を食っていた木村だが、本質的な部分では柔道家でありプロレスを下に見ていた。だから。この一戦がプロレス界にとっては天下分け目の戦いではあったが、柔道家木村にとっては、客を呼べるプロレスショーでしかなかった。
これからプロレスを日本に根付かせ大衆娯楽の一つとして創り上げてゆこうとする力道山にとって、木村の認識違いはとても志を同じにした同士として見る訳には行かなかっただろう。腸
が煮えくり返る思いは、挑発された発言内容では無く、まだまだ基盤が脆弱なプロレスを育て上げると言う「思い」の無さに対してである。
この両者が、腹を割って話し合えたとは到底思えない。調印式の前日に夜通しでルールミーティングが両関係者の間でなされており、基本的なルールは発表されている。しかし後日木村が語る「あの試合は、最初は引き分けの約束で、次はジャンケンで勝敗を決る約束だった。」と言う合意は出来ていなかった。事実、12月22日試合当日、試合直前にルールで揉め試合時間が大幅に遅れた為、ラジオ、テレビの予定時間に間に合わず中継は成されていない。両者の話し合いは着いていなかったのである。
昭和29年12月22日、ゴングが鳴る。
試合は様子を伺いながら始まる。組み合ったところで力道は払い腰で木村を倒すと、そのままヘッドロックで固めてしまう。これがガッチリと決まる。この時木村は「辞めてくれ」と呟く。リングサイドにいた記者の数名がこれを耳にしている。力道はヘッドロックを解き、再び両者スタンドで向き合う。木村は不用意にキックを放つ。これが力道の下腹部を掠める。と、力道は全身を真っ赤にして怒りをあらわにすると同時に、「コノヤロウ」とばかりハリテ、空手チョッブを木村に見舞う。膝をガクリと落とす木村。試合は実質上この一撃で終わっていた。しかし力道の攻撃は続く。ロープに倒れ込む木村に狂った様にキック、ストンピングを浴びせ、更にわざわざリング中央まで引きずり戻し無抵抗の木村の頭部を踏み付ける。ふらふらと立ち上がりコーナーにもたれ掛かる木村に、ハリテ、空手を見舞う。木村は力無くマットに倒れ込む。慌ててレフリーが中にはいりカウントを始める。木村のKO負けである。
力道山はこの試合を勝利することにより日本チャンピオンとなり現在のプロレスの礎を築き上げる事となるい。そして木村の伝説の強さは、ここで終焉するのである。
しかし、なぜ、木村はこうも簡単に負けてしまったのか。自己正当化の唯一の言い訳が「あの試合は引き分けの約束だった。」だとしたら、余りにも悲しい。プロレスの何たるかを理解せず、プロレス界を去ってゆく事となる。
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2010年01月30日

木村政彦と力道山(1)

二つの人生が交差する。

木村政彦は、ハワイ、ブラジルと転戦するなかでプロレスの存在を知る。終戦後、誰でもそうであったが食う為に生きるのである。柔道の達人でも、それだけで食う事は出来ない。闇屋、用心棒、を経験しプロ柔道の興行に参加したりしたが満足な収入を得る事はなかった。そしてハワイに渡り柔道巡業の仕事に就く。木村の強さは本物で、真剣勝負の際に柔道での欠点となる打撃を、空手を習得する事で補っていた。この空手を教えたのが拓殖大学後輩、極真空手創始者の大山倍達である。すでに柔道家と言うよりは総合格闘家に近い実力者で、ハワイでも連戦連勝を重ねていた。これに目を付けたハワイのプロモーターがプロレスへと誘うのである。この時、木村は、まずそのファイトマネーの高さに驚嘆し、美味しい商売と感ずるのだ。当時、妻の結核を直す為に高価なスプレプトマイシンの購入をしなければならなかった木村は、すぐに飛び付く事となり、プロレスラーとして帰国する。しかし、真の強さを追い求めて生きて来た木村にとっては、プロレスがどうしても茶番に映るのである。

時期を同じくして、一年間のアメリカ修業を終え帰国したのが力道山である。アメリカは正にプロレスの全盛期に差し掛かろうとしている時期であり、世界チャンピョン、ルーテーズはアメリカンドリームの象徴として全米を渡り歩いていた。その姿を目の当たりにした力道山は、プロレスの試合をこなしながらプロレス事情を肌で感じ取り、そのビジネスモデルと仕組みを自分のものとする。そしてプロモータとも接触をもち外人の招聘ルートを確保し、日本にプロレスビジネスを根付かせる為に帰国するのである。

1952年2月、力道山は世界タッグチャンピオンであるシャープ兄弟を呼び世界タイトルへ挑戦すると発表する。これが日本で初めての国際試合である。当時の終戦から間もない日本では、この「世界」と言う言葉に痺れ「チャンピョン」と言う言葉に熱狂した。そしてその時のパートナーに木村を指名するのである。当時としてみれば、柔道界トッブの実力者木村と力道山のタッグは日本最強チームであり、これが世界チャンピオンに挑戦するとあって大変な話題を呼び、この試合を日本テレビとNHKが同時放送することとなる。試合が新橋の街頭テレビに映し出されると、またたくまに群衆が集まり、その数、二万であったと言う。これが今でも時代の象徴的出来事として映像が流されるのである。
この試合は引き分けに終わるがプロレス人気は不動のものとなる。しかし、この試合の中で木村は完全な負け役を演じることとなる。幾度も真剣勝負の修羅場をくぐり抜けてきた猛者の面影すら感じられないのだ。彼の中で何かが変わっている。これ以降木村は、力道山とタッグを組む時は何時も引立て役となり、両者の間に次第にシコリが残るようになるのだ。そもそも、当時の木村のバックボーンは歴史のある柔道界であったと言える。そして師匠である柔道家牛島辰熊と後輩である空手家大山倍達とは深い絆で結ばれており、特に血気盛んな大山が、この様な弱々しい木村に黙っている筈もなかった。
両雄並び立たず。一般大衆のヒーロー力道山と柔道を中心とした格闘技界の英雄、木村政彦との間は次第に亀裂が生じて行くのだ。

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2010年01月17日

グレイシーに勝った男

ブラジルの夏は暑い。灼熱の太陽は皮膚をもえぐる。グレイシー柔術はそんな国で生まれる。
1900年前半、全米を賞金稼ぎの異種格闘技で渡り歩いていた前田光世が持ち込んだ柔道を、体系化し改良して創り上げられたブラジリアン柔術は、実践的格闘技としてブラジルで根付き始めていた。当時の中心的人物が今は亡きエリオグレイシーである。日本においてグレイシーの試合で必ずセコンドにいた、あのおじいちゃんである。当時の彼らは柔術の普及活動に努めており積極的に異種格闘技戦を行っていた。また、当然の如く彼らが乗り越えねばならないのは生みの親である柔道であり、彼らにしてみれば柔術の方が、より実践的で強いと言う自負を持っていた。だからそれを実証する機会を伺っていたのである。
そんな折、1951年、柔道振興の為ブラジルに渡って来たのが木村政彦率いる一行である。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とまで言われ、柔道界では今もって彼を超える人間は現れていない、と言うのが通説となっている伝説の人物である。当時の彼の試合の焦点は、相手が何分もつかであったと言う。戦前から戦後に掛けて柔道界の公式戦で13年間無敗のまま、木村自身はプロ柔道家へと転身するのである。そしてプロ柔道の興業を打ち生計を立てるのだが、その人気もままならず、契約金の高い柔道巡業と振興の道を選び、ハワイからブラジルへと渡って来たのである。

木村一行とグレイシー一族が対峙するのは時間の問題であった。
1951年9月、木村一行は思わぬ出来事に遭遇する。同行した加藤幸夫が現地の一柔道家に絞め落されると言う事態が起こる。柔道振興の為やって来た張本人が負けてしまっては話にならない。この事態を重く考えた木村は、自ら試合を行う決意をする。大将直々の登場である。これは既に木村一個人の戦いを遥かに越えた日本柔道の威信を賭けた戦いである。そして、まんまと大将引き出しに成功したグレイシー一族は、その対戦相手に加藤を破ったエリオグレイシーを立てるのである。
ここにおいて、木村政彦×エリオグレイシーの一戦が行われる事となった。

1951年10月23日、場所はリオネジャネイロ、マラカナン・スタジアム。会場に現れた木村は、片隅に置かれた棺桶に気が付く。グレイシーは言う「お前の為に用意した。帰りはその中だ」。これは茶番でもなんでもない。試合そのものが柔道の試合とは遠く掛け離れた完全決着ルールで、ギブアップのみで決着が着くと言うバーリートゥードである。しかも全てがグレイシーの要求するルールで行われるのである。まさにグレイシーの面目躍如であり、60年も前からグレイシーは自分達の有利状況を作りあげてから挑んでくる。木村の凄い所は、これらを全く意に介さず、相手の土俵で戦いに挑んで行くのである。
いよいよ試合開始。10分3ラウンド。
しかしである。
木村強し。
第一ラウンド、両者の力の差は歴然としていた。木村はエリオの裾を捕らえた瞬間に投げを打ち、そのまま寝技に移項し絞め落してしまう。木村自身がエリオの意識を戻したほどだ。
第二ラウンド、木村は、またも大外狩りでエリオを倒すと、そのまま腕がらみを決めてしまう。腕から鈍い音がする。エリオはギブアップしない。見かねたセコンドのカルロス・グレイシーがタオルを投入し試合終了となる。
木村の完勝である。
必勝を期したグレイシーだったが、木村が余りにも強すぎたのである。そもそもグレイシーの誤算は、プロ柔道を知らなかった事にある。講道館柔道の様な禁じ手や規制の多い柔道とは違い、プロ柔道は、それらを解禁してゆく事から始まっており、投げる、絞める、関節を決める、等を自由に使いこなす事を許されていたのである。
こんなに強い木村が、当時日本で人気が出始めていたプロレスへ参入し、力道山と対戦する事になるのである。
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2009年11月22日

ブルーザ・ブロディー

「信念を貫く」とは難しいものだ。誰もがそう胸を張りタンカを切りたいのだが、それを実践するには強い精神力と確かなバックボーンを持っていないとなかなか出来ないものである。
ブルーザブロディーはそれを強引なまでに押し進めた数少ない人間の一人である。
元来プロレスは勝負論に人間が介在し試合をプロデュースする格闘技である。その仕掛けと演出をし、レスラーを配置する役目を引き受けるのはプロモータと相場が決まっていた。勿論、レスラーは元々個人事業主の性格を持っているのだが、それは自分をプロモーターに売り込み気に入ってもらう事から始まる。しかしブロディーは自分自身をプロデュースしてしまうのだ。
だから彼はNWAの様な大きな組織には入いらなかったし、当時勢力を増しつつあったWWWFに属する事もなかった。その為、必然的に金銭に関してもうるさくなり、これが時々トラブルを起こす結果となった。
かくいう私は、あまりブロディーが好きではなかった。チェーンを振り回し奇声上げながら登場する彼の入場シーンは、どこか業とらしさがあり、何かズレた感覚を感じていたからだ。要するに作り過ぎているのである。しかも試合となると、その荒々しい入場とは打って変わって、寧ろ神経質な一面も見せており、このギャップにしばしば戸惑ったものだった。リング上では自分が出てしまうものだから、彼自身は繊細でインテリな人間なのだろうと思うし、自分を管理する緊張感と孤独感の中で生きていた様に思う。それが、我々が望むもっと泥臭いプロレス、ハンセンやシンの様なプロレスとは違う独特な世界感に支配されていた要因であった。そして彼の行動の一つ一つはどこか「計算」が含まれている様に感じてしまうのだ。

彼は鶴田との抗争で全日本での地位を築いて行く。自分の商品価値を上げる為には、相手の選択も重要な要素である。そして、全日本で彼がフォール負けを許したのは馬場の二回、鶴田の一回だけでありブロディーにとって、この二人は許されたレスラーだったのだろう。
こう言う彼が1985年、いきなり新日本への移籍を発表する。当時の新日本プロレスは、長州が抜け、前田率いるUWF勢が抜け、最も苦しい状況にあった頃である。日本人レスラーが少なくシリーズを組むのも難しい状況であったから、ブロディーは正に救世主そのものだった。この為、猪木×ブロディーの一騎打ちは一年間に七回も行われることとなるが、当時、力の落ち始めていた猪木にとっては、可也シンドイ相手であった事はその戦績を見ても明らかである。2勝2敗3引き分け、フォール勝ち無し。ここでもブロディーは自分の流儀を押し通すのである。
1985年12月、IWGPタッグリーグ決勝戦、藤波、木村×ブロディー、ジミースヌーカ組となる。ここで事件が勃発する。試合直前にブロディーは試合をキャンセルし帰国してしまう。前代未聞の出来事である。レスラーが試合をボイコットしてしまうなど本来有り得ない事である。新日本は怒り心頭となりブロディー、ジミーを永久追放処分と発表する。この事によりブロディーは長い間トラブルメーカーとの評価が固定化されることとなり、猪木は「自分の尺度しか持たない男」と、切り捨てる。
しかしである、ブロディーは紳士であり個人事業者としてのリスクを他のレスラー以上に背負った人間である。理由も無く試合をキャンセルするはずがない。ブロディーにとってみれば、新日本側の「藤波組を勝たせてくれ」と言う要求が呑めなかったのである。
彼は、自分自身をプロデュースするレスラーである。馬場、鶴田、猪木との抗争によりトップレスラーとしての地位を築いてきた。それは彼自身が認めたレスラーであるからであり、それにしてもフォール負けは簡単に許していない。それが、評価もしていない藤波や木村に何故負けられるのか。それを許す事は、今まで自分が守り続けてきた「信念」を曲げる事になるではないか。レスラーが試合をボイコットし、ルールを破り、掟を破り、プロモーターを怒らせ、ファンを失望させる事が選手生命に関わる事は百も承知である。ブロディーの苦渋の選択であった。
そんなブロディーを助けたのがジャイアント馬場である。1987年全日本に復帰し、翌年ジャンボ鶴田からインターナショナルヘビー級選手権を奪取した時、彼は初めて控え室で号泣するのである。

1988年7月16日、プエルトリコ、レスラーでありブッカーであったホセ・ゴンザレスに、ドレッシングルームでナイフに刺され出血多量により死亡。レスラー仲間は一切証言せずゴンザレスは無罪となる。

信念を貫いた数少ない人間の一人であり、希代の名レスラー、ブルーザーブロディーの最後だった。合掌。
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2009年06月21日

三沢光晴

三沢2Image1.jpg
東京スポーツの21年6月16日の一面の写真だ。
沢山の言葉よりも、この三沢の表情を残しておきなかった。
無念の目か、解き放された安堵の目か。
馬場、鶴田、三沢へと頑なに守り継がれた「王道プロレス」は猪木プロレスとは一線を画すものであった。ある意味猪木は、この「王道プロレス」に嫉妬していたとも言えるのだ。果たして、三沢の死により完結したのだろうか。
昭和プロレスの終焉である気がしてならない
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2009年05月05日

UWFの誕生と崩壊(2)

果してプロレスは八百長か否か。
レスラーは勿論、プロレス関係者、ファンにとって決して口に出してはいけない、この忌まわしい言葉。「スポーツか真剣勝負かなどと論じる事自体意味が無く、プロレスはプロレスというジャンルだ。」と声を大にして言えば言う程怪しくなってしまう。だから我々ファンはこの事に触れない、語らない。プロレスを観て興奮し感動する自分がいる、その事実があれば十分ではないか。そう思うのである。
ところがUWFは、この問題に真っ正直から取り組んでしまう。かつて猪木が足を踏み入れてしまった真剣勝負の世界、その事によりリアルファイトとプロレスの境目を曖昧にしてしまい、標榜するストロングスタイルの意味合いすらも曖昧にしてしまった。それ程、格闘技における真剣勝負の世界は、何もかも無に帰してしまい、人を虜にする魔物が住んでいるのである。ある意味UWFはこの魔物に取り付かれたと言っても過言でない。取り分け佐山はUWFのルール作りと理論の構築からプロレスの在るべき姿を見出そうとすると同時に、そのものに決別する事を決意するのである。

1985年、年が明けてもUWFの経営は依然苦しい状況が続いていた。ところがヒョンナな事から資金融資の話が飛び込んでくるのである。UWFプロレスに魅せられ首都圏の試合は統べて見ると言う熱烈なファンの一人である豊田商事の永野一男会長が3億円の使用を申し出るのである。当時の蒲田社長は苦しいさなかの話しに飛びつくのは当然の話しである。このころからUWFは妙に景気の良い話が飛び交う様になる。赤坂への事務所移転、長期試合スケジュールの発表、海外進出、事務員の新規採用、新設道場、等々である。
この勢いに乗じて、6月、佐山により作られたUWF用の新ルールが完成し、次期シリーズより適用される事が発表される。藤原の頭突きは禁じ手となり、また、相手がダウンした場合のキックもまた反則となり、木戸が多用したプロレス流木戸キックも当然禁止される事となる。選手の安全性が重視されており、今思えば当たり前のルールではあるが、元来プロレスにおいてこの安全性は「暗黙のルール」として存在しており、それを明文化したかどうかの違いである。木戸キックなどは所謂プロレスラーのキックであり、破壊力より試合のリズムを取る為のものだった。すなわち、UWFの面々においてもまだ根底には現状のプロレスの相互調和が前提となる考え方から抜け出しておらず、佐山のルールブックに関して言えば「何を今更」と思うのである。これは、方向性の違いに起因しており、全く新しい格闘技を根底においたルール作りと、従来のプロレスを基点とし、それを変えて行くと言う考えでは根本的に違って来る。そして前田にしてみても、ルールの方向性が明らかに自分の思い描くプロレス、ゴッチ道場で皆が共有したものの実現とは異質のものであると感じるのである。しかもこのルール発表が実践するレスラーを抜きに作られたものであり、これが佐山と他のレスラー達、取分け前田、藤原との亀裂となっていくのだ。

この様な内部事情の中で、とんでもない事態が勃発する。資金融資するはずだった永野一男会長の殺害事件である。そもそも豊田商事と言う会社自体が怪しく、老人、年金生活者から資金を集め投資すると言う事業で、結局誰かの恨み買う商売だった。自宅のマンションで殺害される事となり、当然資金援助の話も立ち消えとなる。

ここに於いて、UWFは万事休すとなると同時に、内部の不平不満が一気に表面化する。藤原は試合中、堂々と頭突きを行い「俺はショートと言う言葉は嫌いだ。俺がやりたいのはプロフェッショナルレスリングだ」と、うそぶく。前田に至ってはあからさまに佐山を批判し始める、「だいたい佐山さんの個人的な理想に俺らが振り回されてる場合じゃないんだ。初代タイガーマスクとして一時代を築いたと勝手にうぬぼれている分には良いが、俺らまで巻き沿いにされるのは御免だ。一度、伸び切った鼻を折ってやらんといかんな。」

1985年9月2日に行われた、前田×佐山の一戦は、シュートでもプロフェッショナルレスリングでもなかった。喧嘩マッチである。仕掛けたのは前田。理由なき制裁マッチである。佐山は訳が解らない。体格差で勝る前田は、圧力をかけ接近戦に持ち込む。接近してしまえば佐山のキックは無に帰す。そして、ショウテイを佐山の顔面に見舞ってゆく。無表情にただひたすら佐山の顔面を殴ってゆく。「落ち着け。落ち着け。」近付くたびに佐山は声をかける。しかし、前田は無言のまま顔面へのショウテイ、捕まえては膝蹴り、を繰り返す。佐山は二回、膝蹴りが急所に入ったとレフリーに訴える。収拾が付かない試合にレフリーは前田の反則負けを告げる。判定を聞くと前田はさっさとリングを後にした。
佐山は、この一戦をもってプロレス界から身を引き総合格闘技「シュート」の設立に動き始める。それと同時にプロレスとの訣別の書「ケーフェイ」を出版するのである。これはプロレス関係者が初めて書いたプロレスの暴露本となるのであるが、なぜそんな物を書く必要があったのだろうか。
前田を始めとする他の選手達は新日本プロレスへ出戻りの形となり参戦するのだが、一度見たシュートプロレスの世界から離れる事ができず、第二次UWFへと繋がってゆき、前田はリングス設立へと向かうのだが、現時点では、彼らはまだプロレスの何たるかを見出だせづにいるのだ。

タグ:UWF
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2009年04月12日

UWFの誕生と崩壊(1)

夢は追い続けるもの。信念は貫くものである。
猪木が移籍する、フジテレビが付く、と噂された新団体UWFは、誕生後紆余曲折を繰り返し、彼らはプロレスの何たるかを追求し始める。スポーツか、格闘技か、シューか。無い物ねだりの問い掛けかも知れない、それでも今より一歩でも二歩も前へ進んでみたいのである。

1984年4月17日、UWFのオープンシリーズ最終戦は、前田×藤原の間で行われる。試合は大流血戦となり両者ノックアウトの引き分けに終わる。「志」とは異なり決着の着けられない結果を迎える。しかもこの試合、エースでありメインエベンターである前田に声援が起こらない。「猪木コール」と「長州コール」が会場では湧き起こるのである。当時の前田は若きエース候補の域を出ておらず、メインエベントを勤める責任の重さ、興業としての難しさ、自分自身のファンの中での位置付け、自分に足りないもの、を思い知らされる。新日本プロレスと言う枠の中で上を見ては批判していた事が今、自分がエースとしてしなければならない事となり、その重さに唖然とするのである。実際にリングの上に立ち、従来のプロレスが忘れかけている「強さの証明」としてのプロレスをどう具現化し観客にどう伝えて行くか、前田の抱える問題は大きい。
オープンシリーズ終了後、UWFは再編される。R木村、剛、浜田が抜け、新たに佐山、藤原、高田、木戸、山崎が参加する事となり、正にゴッチ道場そのものである。これにゴッチの娘婿空中正三を加え、団体運営がなされる事となる。取分け佐山は、是非とも欲しいレスラーだった。当時はタイガーマスクとして知名度も高く客を呼べるレスラーの一人であり、また現行プロレスの在り方に最も批判的で新日本プロレスを真っ先に退団した人間である。今後UWFの仕組みとルール作りの中心人物となり、しかもそれらを理論的に語れる人間だった。
ここにおいて前代未聞の格闘技団体の陣容が整った事となるのだが、経営面での苦しい状況は依然解消されないままシリーズが開催される事となる。
1984年12月5日後楽園ホールにて行われた藤原×佐山の一戦は想像を絶する試合となる。格闘技色の強い、強い者が勝つプロレス、これを具現化する試合である。フォール無し、ロープに飛ばず、場外乱闘の無い力対力の試合だ。ここで佐山は切れの良いキックを披露する。タイガーマスク時代のものとは訳が違う、一発で相手を倒すキックである。藤原は防御し堪え、隙を見て寝技に持ち込み関節を決めようとする。今思えば現在の総合格闘技でよく見かける光景であるが、当時は猪木、馬場プロレスの全盛の時期であり、ファンにとってみれば正に真剣勝負そのものに見えた。この試合の最後が圧巻である。倒れた藤原に佐山のキックか容赦なく浴びせられる。人間が人をこんなにも蹴れるものかと思う程蹴りまくるのである。藤原のKO負けとなる。
この一戦は従来のプロレスに飽き足らなかったファンの心をシッカリと掴む事となり藤原×佐山の一戦はUWFの売り興業の一つとなるのである。そして、これまでのプロレスになかったキックはUWFを象徴する技となり各選手も多用する様になるのだが、様々な問題もまた現出する事となった。まず選手の怪我である。この様な試合を週に何回も出来る訳がなく、その為にはルールの整備が重要課題となる。ダウンした選手を蹴り続ける事は生命の危険すらあるのだ。佐山は早々にルールの作成にとりかかる事となる。
・第8章(第26条)審判は公正中立で、かつ絶対的権限があり、いかなる場合においても抗議することは許されない
・ (第22条)目に余る反則の場合は、主審の意思で即反則負けとなる
・ (反則とは)
@ 当身攻撃での相手の首から上への、頭突き、ナックル、肘打ち、膝蹴り
A 当身攻撃での下腹部、間接部への攻撃
B UWF認定の専用シューズ着用以外でのキック攻撃禁止
・ (第33条)ロープを掴む事、押し込みながらの攻撃禁止
・ (第35条)ロープ外へ故意に出る事の禁止
・ ・・・・・・・・
ルールは厳しくすればするほど項目が増えてゆき、プロレスがプロレスでなくなる過程でもあった。
そう、佐山はプロレスを完全に否定した「シュート」(当時は、この言葉は隠語でありガチンコ勝負を意味していた)としての格闘技を思考していたのだ。ルールを作り試合をし、そして不具合を修正する。彼は、この世界にのめり込んでくのである。この過程に於いてUWFと言う団体の 型と定義を明確にしてゆき、プロレスとは違う新しい格闘技「シュート」を誕生させるのである。
しかし、前田や藤原はルールに厳しいプロレスを目指した訳ではなく、猪木が標榜していたストロングスタイルのプロレスであり、「強さの証明」としてのプロレスをどう具現化するかと言う、もっとシンプルな部分での問い掛けでもあった。更に言えば、佐山理論を実践する為には試合回数を減らし、週に一回が限度となり、これでは団体経営が成り立たないと言う根本的な問題をも含んでいた。
理念や理想の創造と追求、団体経営の在り方、それに係わる人間の意識変革、新しいプロレスルの創造は予想外に難問題であった。しかし、UWFはその第一歩を歩み始めたのである。
タグ:UWF
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2009年03月01日

1980年の猪木(4)UWF誕生

1984年の年明け。新団体設立の噂は依然として消えることはなかった。長州が動くのか、佐山か、しかしこの両者のプロレス観は違いすぎる。フジテレビは本当に動くのか、噂される超大物レスラーの参加とは一体誰なのか。噂が噂を呼び、憶測が乱れ飛ぶ。

1984年2月3日、札幌大会、WWWFインタヘビー級タイトルマッチ、藤波×長州の一戦が行われた。場内は満員である。長州の入場テーマが流れ観衆を掻き分ける様に長州が登場しる。しかしここで鉄パイプを持った藤原が襲い掛かる。花道の途中でざわめきが起こり、人だかりの間から頭にタオルを巻いた藤原の姿が僅かに見え隠れする。やっとリンクに辿り着いた長州は額が割れ夥しい血が流れ、全身真っ赤の姿の状態である。開始のゴングは鳴るが、当然試合になる訳がない。この状態に怒ったのは相手の藤波の方である。試合後、猪木に噛み付き、外に飛び出すと「こんな会社辞めてやる」と絶叫するのであるが、その声は雪の札幌に虚しく響く。むしろテロ行為に出た藤原の「下には下があるんだ」と、呟いた言葉の方がズシリと胸に響く。
しかし、藤原はこの瞬間から表舞台に踊り出る事となり、トップレスラーの仲間入りを果たすのである。
これは猪木が仕組んだ事である。この頃の猪木は一方にのみ指示し相手には知らせないで事を運ぶ事が多く、それだけ試合はリアリティのある緊迫感に溢れるものとなっていた。しかし、何故、今、このタイミングであったのか。

昨年(1983年)猪木は、社長を辞任した時、自分が苦労して作った会社が乗っ取られると感じる。そこで新しいプロレス団体を作り、いざとなったら反対勢力は残してそっくり移る事を考える。そこで新間を呼び、「新団体を作ろう。俺は直ぐには動け無いが必ず後から行くから」と、相談を持ち掛ける。新日本を離れて以来、盛んにタイガーマスク復活を画策するが上手く事が運ばなかった新間にとって、猪木が動くなら鬼に金棒である、即座に行動を開始する。そしてこの時、新団体のエースを前田日明にする事が二人の間で取り交わされるのである。
新間の動きは早い。外人の招聘ルートは兼ねてから親交の深いWWWFのビンスマクマフォンに依頼する事とし、日本人選手は、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田。そして最大の問題であるTV放映に関してはフジテレビに企画書を持参し依頼する。丁度番組編成時期でもありフジTV側も検討を始める事となる。更に、エース候補である前田、そして高田を呼び、こう伝えるのである。「新日首脳陣の極秘情報だけど、内部のクーデター分子を残して猪木以下主力メンバーが新団体に移動することになっている。TV局との話合いも終わった。早々に新団体UWFを発足させる。」。この話に嘘があったかどうかは別として、良くも悪くも新間流である。前田は思い悩んだ末に了承する。それは、派閥抗争と私利私欲の渦巻く新日本内部に対する嫌気、個人的な母親の入院一時金の必要性、リング上では軍団抗争が中心となり本来のストロングスタイルが実現できない状況への怒り、そしてレスラーとしての新日本での自分の序列への不満、それらを一気に解消する為に新天地で自分のやりたい真のストロングスタイル実現を目指し、UWFと新間に自分の人生を賭ける決意をする。ここにおいて新団体「UWF」が誕生するのである。

動き出せば事を早い。新間の段取り通り、前田は早々にニューヨーに飛びWWWFインターヘビー級の王座を獲得する。これが新生UWFの看板タイトルとなるのだが、新日本の藤波が所持するものと全く同じタイトルが二つ存在してしまう事となった。
ここで登場するのが、テロリスト藤原喜明である。
藤原と前田は師弟関係にあり、入門当時から公私共に面倒をみた関係である。共にゴッチを崇拝しストロングスタイルを追及して来た同士でもある。その前田が何の相談も無く事を運んだことに対して怒りと悔しさが爆発する、「あいつの根性を叩きなおしてやる。」そう呟くのである。これを受けて、猪木はUWFのオープニングシリーズへ「前田制裁」の為に藤原を出場させると発表する。これはいかにもプロレス的発想であり、現実の問題として他団体に新日本の選手が簡単に参戦できる筈も無く、UWFの援護射撃の為の猪木の強権発動であった。そしてこの時、藤原喜明はトップレスラーの仲間入りをしている必要が有り、そこで初めて「前田×藤原戦」は客を呼ぶ、注目の一戦となるのである。
長い話になってしまった。藤原が長州にテロ行為を働き、その報復マッチが組まれ緊迫感溢れる試合が展開される事により、藤原はトップレスラーの一人にのし上っていた。猪木の仕掛けである。

さあ、これで準備は整った。一ヵ月後の4月11日大宮スポーツセンターでの開幕戦を待つばかりに思えた。しかし、WWWFの王座を引っ下げ、ニューヨークから凱旋帰国した前田を待っていたのは、とんでもない事実だった。まず、フジテレビが番組制作の打ち切りを伝えて来る。当初企画書にあった、猪木、長州、タイガーマスクの不参加が判明し、これでは乗れないと言うことである。そして猪木であるが、新間は2500万円の移籍料を渡してあると公表、泥仕合の様相を施していた。しかし、当時の猪木は借金の山にNETとの契約問題と、自分の意思では動けない状態にあり、援護射撃以上の事は出来なかったのである。更に問題はWWWFからの外人招聘がストップしてしまった事だ。契約至上主義のアメリカでは、新間がいかにビンスマクマホンと親交が厚くても新日本との契約が優先さるのだ。残ったのは前田、R木村、剛竜馬、グラン浜田の四選手だけとなり、さすがの新間も頭を抱える。そして最後の救世主に望みを託すのである。
ジャイアント馬場の登場である。
新間はNWA系列からの外人招聘を馬場に願い出る。
「何とか、つなぎで外人選手を貸してもらえませんか」
「新間君、つなぎは困るよ。ちゃんとシリーズを通して、これからもウチのブッカーから選手を呼んでくれよ。」。二人は大笑いするのである。

馬場はとびっきり上等なスケールの大きい経営者であった。お互いにいがみ合ったり、潰しあったりしながら、顔を合わすと大笑いしてしまう、昨日約束した事を、何の躊躇も無く忘れてしまい全く反対の行動をする猪木。そうと知りつつ借金に奔走する新間。この人間達。プロレス村の住民達のいざこざは、まるで兄弟喧嘩の様である。良くも悪くも、昭和プロレスは、馬場、猪木、そして新間が繰り広げるプロレス物語である。
平成の足音が、もうまじかに聞こえて来ている。

タグ:UWF
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2009年02月21日

1980年の猪木(3)新日本プロレス分裂

新日本プロレスの繁栄は更に拡大する勢いにあった。しかし、組織が膨れあがると派閥が現れ、不平不満分子が現れ、また会社改革を唱える者も現れる。同じ意思を持ち同じ方向を見るのが難しくなるのである。そしてこの不調和を増長するのは、異文化の介入である。それは、NETと言う全くプロレスと言う業界を知らない者の経営参画により成されることとなる。

1983年6月1日長州力とアニマル浜口は、IWGPリーグ戦の最中に記者会見を行い新日本プロレス離脱を宣言する。彼らは、独自のプロダクション組織から新日本に参加する形をとり、ここに維新軍の誕生となるのである。ここから新日本軍対維新軍の対抗劇シリーズ化されるのである。当時人気商品であった長州・藤波戦の「名勝負数え歌」は継続されるのだか、このプロダクションが後にジャパンプロレスの設立へと進んで行く事となる。
そしてもう一つの難問が燻っていた。当時人気の絶頂にあり、視聴率を最も稼いでいたタイガー・マスク(佐山聡)の退社である。こちらは一筋縄ではいかなかった。事のキッカケは佐山の結婚問題に端を発する。人気絶調時の事でもあり、新間が待ったをかけるのである。結局ロサンゼルスで秘密裏に挙式は上げられるのだが、佐山の脱退原因はもっと深い所にあった。格闘技思考の強い佐山にとって覆面レスラーなどはビジネスとして割り切る以外できる話でなかった。プロレスとは何か、タイガーマスクと言うギミックの世界から、そして覆面の中から、より一層プロレスの相互調和の曖昧さが鮮明に見えていたのかも知れない。かつての猪木がそうであった様にリアルファイトへの傾倒と憧れ、猪木の遺伝子の一部が佐山に乗り移ったかの様に、本当の実力主義の世界で勝負がしたい、そう思うのである。しかも猪木以上に、より理論的に現実的思考の中でリアルファイトを提唱してゆくのである。佐山の脱退に関して猪木は一度話しあいの場を持つが、その後諦めの様子で「しかし、試合は一人で成立する訳じゃ無いし、相手あっての勝負だろう」ともらすのである。そして、この一連の騒動を眺めていた馬場は「彼(佐山)の言動は許せないな。ああ言う人間はウチでは絶対使わないよ」と、つぶやく。佐山離脱の問題は一個人の行動ではあったが、深い部分でプロレスの本質を揺るがす問題を包含していたのである。そして、後にこれが大きな火種となって現れて来るのであるが、佐山理論が成熟するには、まだ少し時間が必要だった。
そして更に、この騒動の間、新団体できると言う噂は絶える事が無く、長州、佐山の動向に新日本内部は神経を砥ぎらす日々を送る。噂は信憑性を帯びており、フジテレビが着いたとも噂された。

ここまで来ると、新日本プロレスはどうなってしまうのか、悪い事は連鎖的に悪い状況を呼ぶ。今度は、この騒動の責任問題が起きる事となる。猪木社長、坂口副社長は辞任、新間は失脚となり、新日本プロレス創設以来の三名の発言権は奪われ、その代わりにNET側から役員が出向される事となる。しかし、会社とは一体誰の物であろうか。猪木が、身体がボロボロになるまで頑張って作り上げた会社が、猪木の物で無くなるのである。株式会社の恐ろしい部分である(当時持ち株はNET32%、猪木が28%だった)。しかしこれも猪木の責任であるかも知れない。アントンハイセル社を作り、ブラジルへの夢を追いかけるあまり、内部体制に全く関心を寄せなかった為である。すなわち猪木は起業家ではあるが経営者ではなかった。この点に於いて馬場とはっきり異なる点である。そもそもプロレスと言う商売が爆発的に人気を呼んだ時点で、その肖像権や版権、講演会、TV出演、出版、・・・多種多様な事業が発生し利益を生む事ができる。これが、新日本はそれぞれの部門の思惑により成され、分裂と言う形でしか実現しないのである。何とも残念な事であり、馬場はと言えば、これらの権利を一手に掌握し自分の管理下に置いているのである。

負のスパイラルである。悪い事が悪い事を呼ぶ。ツキの無い時は動かない方が良い。
しかし、猪木は動いた。新会社設立に動くのである。
ユニバーサル・プロレスリング・プロモーション(UWP)の誕生である。
タグ:UWF
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2009年02月13日

1980年の猪木(2)

苦節十年とはまさにこの事である。猪木と新間のコンビは、苦労しながらも自分達の出来る事は総て行って来た。その意味では悔いの無い十年だった。だから新間寿は宣言する。「プロレスブームじゃない。新日本プロレスブームだ」と。

第一回IWGP決勝戦は1983年6月2日、猪木対ハルクホーガンの間で行われる。世界各地でトーナメントが開催され、そこを勝ち抜いた者が最終トーナメントに参加する。乱立する世界チャンピオンを統一し、リアルチャンピオンシップを決めると謳われたこのタイトルだが、誰もが新日本が作った新日本のチャンピオンを決める戦いである事は十分に理解していた。だから当然、初代チャンピオンはアントニオ猪木以外に有り得なかった。しかしこれが思わぬ結果となる。試合が20分経過した頃、不用意にエプロンに立った猪木めがけて、ホーガンのアックスボンバーが炸裂する。猪木はもんどりうってリング下に転落すると、戻る事はなかった。そして、セコンドに抱えられてリングに戻された時は、舌が巻かれる状態になり、そのままでは舌が気管を圧迫し窒息する危険があり、口にタオルを詰めた状態で病院に直行する事となる。そしてこの顛末は全国放送される結果となる。
異常事態である。完全にプロレスのストーリーが崩れ、初代チャンピオンは、ハルクホーガンとなった。ファン、関係者、誰もが予想だにしない事態である。
しかし、しかしである。病院に運ばれたはずの猪木は数時間後には、姿を消しおり、関係者を更に慌てさせる結果となる。
だいたい、舌が飛び出して罷れる様な症状などある訳がなく、テレビ解説していた山本小鉄さんなどは、「こういう事がたまにあります。舌がからんで窒息したら大変だ」などと、いい加減な解説をするありさまで、誰もが理解できなく右往左往する有様だった。これは、猪木の単独犯行であり、一人芝居である。猪木はこの事に関して口を開く事はなく、永遠の謎となり残ることとなる。ではなぜ猪木はこの様な、負けを演じたのであろうか?
当時猪木の体調は、最悪の状態にあった。糖尿病に膝の故障、体はボロボロの状態にあり、プロレス黄金期を最先頭で支えるには余りにも荷が重い。そもそもが、プロレスができる体調に無かったのである。更に、アントンハイセル社の事業はなかなか上手く進まず、借金は山の様に積もり金策に頭を抱える毎日であり、新日本内部では批判と反発が渦巻き四面楚歌の状態である。こんな状態の所にホーガンのアックスボンバーである。「あの野郎、加減を知らない野郎だ」。猪木は骨の髄までこたえた。そして心を折るに十分だった。しかし、ここからが猪木である、ただ単にリングアウト負けでは面白ろくない。大芝居をうつ事により、スポットライトは優勝したホーガンでなく猪木にあてられる事となる。

翌年、1984年6月14日、第二回大会の決勝もまた、ハルクホーガン×猪木の間で行われる事となる。新日本としては、猪木の腰にベルトが巻かれなければ、今後の展開が作れない。やっと設立した世界チャンピオンが海の向こうに居たのでは、タイトルマッチも組めず興行にもTV視聴率にも影響するからだ。ところが来日したホーガンは、1年前の彼ではなかった。ビンス・マクマホンの全米制圧計画の旗手として、この年の1月にWWWF世界チャンピオンとなり全米にホーガンブームを巻き起こした大スターに変身していた。しかも、当時30才と最も油が乗り切った最盛期である。身体もでかく均整がとれておりスピード、パワーは申し分なく、負ける事が想像できない超トップレスラーである。対する猪木は最悪のコンディションにあり、肌のツヤも無く、勝負は最初から見えていた。猪木が勝つ方法は、ホーガンをリング下に置き去し、リングアウトを拾うぐらいしか無い様に思えた。
試合は予測通りホーガンが圧倒する。猪木は盛んに場外に誘うが、場外戦になってもホーガンの優位は動かない。猪木の首根っこを鷲掴みにすると、そのまま引きずり回し鉄柱へ打ち付ける。猪木がホーガンにしがみ付く様に縺れ合い、両者リングアウトの裁定が下る。ホーガンは防衛したとばかりに引き上げ様とするが、半ば強引に延長戦のゴングが鳴る。何度やっても同じだった。縺れ合い、両者リングアウトが繰り返される。両者共に負ける事の許されない試合は、結末を迎える事が出来ない。この状態に業を煮やした長州力は、場外でホーガンにリキラリアットを見舞う。すかさず猪木はリングに転がり込み勝利する事となる。
ところが、収まらないのは観客である。弱い猪木を目の当たりにし、しかも訳の分からない裁定。おまけに長州の乱入である。一斉に「長州出てこい!」「金返せ!」コールが巻き起こる。リングに物が投げ込まれる。放火騒ぎが起きるに至っては収拾がつかない状態となり、猪木、藤原がリングに現れ詫びをいれることにより、ようやく沈静化するのだ。

この頃から新日本プロレスの試合会場に足を運ぶとストレスが貯まる状態が続く事となる。それは、どうヒイキ目に見ても猪木の力が落ちている事が明らかであると同時に、何時の間にか猪木の思想である「下克上」「実力主義」がファンの中に浸透しており、従来のプロレス的温情主義の裁定では満足できなくなって来ていた。猪木自身が忘れ掛けていたリアルファイトへの願望がファン層に渦巻き始めていたのだ。この日本での変化の兆候と時期を同じくして、ハルク・ホーガンを前面に押し出しアメリカでの勢力拡大を目論むWWWF勢力は、伝統あるプロモーターの連合組織NWAをも凌駕しようとしていた。この事は、ジャイアント馬場が自らの寄り所とし権威の象徴としていたNWA、すなわち旧プロレスが揺らぎ始めていたのだ。
時代が動き始めていた。

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