昭和29年11月1日付け、朝日新聞。
「力道山はゼスチャーの多い選手で実力は無く、私と問題にならない。今度挑戦したのは力道山のショー的プロレスに対して私の真剣勝負でプロレスに対する社会的批判を受けるつもりで挑戦した。」木村が力道山への挑戦をぶち上げる。2日後力道山は「上等だ。どっちが日本一か、決着を着けようじゃないか。」。ここにおいて、決戦の火蓋が切られる。
プロレスブームの真只中の出来事である。昭和29年の暮れは日本中がこの話題で持ちきりとなる。そして、プロレスはショーか八百長か真剣勝負かと連日新聞を賑わせる事となる。11月27日神奈川県松竹大船撮影所で調印式が行われ、力道山は「どんなプロでも人に見せるものをショーと言う。見て満足できない様なものは値打ちが無い。プロレスのショーと真剣勝負は紙一重だ。」そう言うと試合当日までピタリと発言しなくなる。一方の木村は調印式後、妙に饒舌とり新聞紙上で何度も力道山を挑発する発言を続ける。「私は得意の寝技で勝負する。今回は真剣勝負なので腕の一本ぐらいは折れるかもしれないが、仕方ないだろう。」「今度の試合は45分一本勝負を主張したい。真剣勝負は一本勝負で決めるもので三本なんて考えられない。」「力道山の空手チョップ。あれがアメリカ的ショウープロレスなのであまり心配していない。」
当時の社会的認知度から言えばプロレスより柔道の方が明らかに上で、その実力者木村は多くの支持を受けていた。その木村の口から、暗にプロレスはショーだと言い、それを俺が正してやると言っているのである。当時「国際プロレスリング団」を結成しプロレスで飯を食っていた木村だが、本質的な部分では柔道家でありプロレスを下に見ていた。だから。この一戦がプロレス界にとっては天下分け目の戦いではあったが、柔道家木村にとっては、客を呼べるプロレスショーでしかなかった。
これからプロレスを日本に根付かせ大衆娯楽の一つとして創り上げてゆこうとする力道山にとって、木村の認識違いはとても志を同じにした同士として見る訳には行かなかっただろう。腸
が煮えくり返る思いは、挑発された発言内容では無く、まだまだ基盤が脆弱なプロレスを育て上げると言う「思い」の無さに対してである。
この両者が、腹を割って話し合えたとは到底思えない。調印式の前日に夜通しでルールミーティングが両関係者の間でなされており、基本的なルールは発表されている。しかし後日木村が語る「あの試合は、最初は引き分けの約束で、次はジャンケンで勝敗を決る約束だった。」と言う合意は出来ていなかった。事実、12月22日試合当日、試合直前にルールで揉め試合時間が大幅に遅れた為、ラジオ、テレビの予定時間に間に合わず中継は成されていない。両者の話し合いは着いていなかったのである。
昭和29年12月22日、ゴングが鳴る。
試合は様子を伺いながら始まる。組み合ったところで力道は払い腰で木村を倒すと、そのままヘッドロックで固めてしまう。これがガッチリと決まる。この時木村は「辞めてくれ」と呟く。リングサイドにいた記者の数名がこれを耳にしている。力道はヘッドロックを解き、再び両者スタンドで向き合う。木村は不用意にキックを放つ。これが力道の下腹部を掠める。と、力道は全身を真っ赤にして怒りをあらわにすると同時に、「コノヤロウ」とばかりハリテ、空手チョッブを木村に見舞う。膝をガクリと落とす木村。試合は実質上この一撃で終わっていた。しかし力道の攻撃は続く。ロープに倒れ込む木村に狂った様にキック、ストンピングを浴びせ、更にわざわざリング中央まで引きずり戻し無抵抗の木村の頭部を踏み付ける。ふらふらと立ち上がりコーナーにもたれ掛かる木村に、ハリテ、空手を見舞う。木村は力無くマットに倒れ込む。慌ててレフリーが中にはいりカウントを始める。木村のKO負けである。
力道山はこの試合を勝利することにより日本チャンピオンとなり現在のプロレスの礎を築き上げる事となるい。そして木村の伝説の強さは、ここで終焉するのである。
しかし、なぜ、木村はこうも簡単に負けてしまったのか。自己正当化の唯一の言い訳が「あの試合は引き分けの約束だった。」だとしたら、余りにも悲しい。プロレスの何たるかを理解せず、プロレス界を去ってゆく事となる。
【日記の最新記事】

